「萩まちじゅう博覧会」を楽しもう!藩校跡で幕末パンと郷土料理を食してみませんか?

イベント・体験
公開:2025/09/19 ~ 終了:2026/12/31

開催日程:

12025/10/25 04:00 ~ 2025/10/25 06:00

22025/11/22 04:00 ~ 2025/11/22 06:00

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「興味ある」が押されました!

2025/11/04

経過レポートが追加されました!「2025年10月19日(日)「萩・着物コレクション in 萩博物館」開催‼️」

2025/10/12

〝幕末パン〟

なんて浪漫あふれる言葉だろう・・・。 夜明け前の日本。歴史の転換点となった四境戦争(第二次長州征討)で、高杉晋作や大村益次郎ら率いる長州軍が戦いを優位に進められたのは、武器や戦術だけが理由ではなかった!! そこには兵士の高い士気を支えた「備急餅(びきゅうもち)」=幕末パンの存在があったのである。

皆さん、こんにちは。 萩市ローカルエディターの三枝です。

今や日本の食卓ですっかりおなじみの存在となったパン。 もともと米食だった日本人が、パンを食べるようになったきっかけって何でしょう? 皆さん、ご存知ですか?

実は、幕末期に兵糧(ひょうろう=戦闘時における軍隊の食糧)として用いられたのが始まりなんです!

1543年、ポルトガル商人によって、種子島に鉄砲と共に伝来したパン。 しかし、当時から米が主食の日本にパンが根付くことはなく、再びスポットが当たったのはそれから300年もの時が過ぎてからのこと。近海に度々外国船が現れるようになり、隣国ではアヘン戦争が起きるなど、日本では緊迫が高まっていました。 海防の重要性を感じた伊豆韮山代官・江川英龍(1801〜1855)は、炊く時に煙が出て敵に居場所を知らせるリスクのある米ではなく、持ち運びができて日持ちがするパンに目をつけ、兵糧として用いることを考えました。 そして1842年4月12日、日本人のためのパンが初めて試作されました。このことにちなんで4月12日は「パンの記念日」に制定され、江川英龍は「パン祖」として今でも尊敬されています。(この時は幸いにして戦争が起きなかったので、パンが実際に使われることはありませんでした)

さて、江川英龍が亡くなった翌年のこと。伊豆韮山から遠く1000km以上も離れた長崎の地で、語学や西洋科学の勉学に励む一人の男の姿がありました。その人の名は、中嶋治平(じへい)。幕末期に活躍した長州藩の科学者です。 萩の幕末パンは、この中嶋治平が長崎で3年間学び、自ら書き留めた記録の中にあった「ブロード」の作り方を元にしたものです。

今回は、萩の「幕末パン」を食べることのできる、「藩校跡で幕末パンと郷土料理を食す」プログラムをご紹介します。

専属ガイドが特別にご案内『萩まちじゅう博覧会』においでませ!

萩市はかつて毛利氏が治める長州藩の城下町として栄え、幕末から明治維新にかけて、日本の近代化に貢献した多くの逸材を育んだまちです。 現在も江戸時代から続く古い町並みや松下村塾、明治日本の産業革命遺産など、日本発展の礎となった場所を実際に見てまわることができます。

そんな歴史と文化のまち萩では、まち全体を屋根のない博物館に見立てた「萩まちじゅう博物館」という取組みを行なっています。その一環としてこの秋、萩の随所にちりばめられた“おたから”を体感する40件ものプログラムが同時期に行われる『萩まちじゅう博覧会』を開催。 はぎポルトの入居する萩・明倫学舎でも、「藩校跡で幕末パンと郷土料理を食す」プログラムが開催されます。

藩校明倫館の跡地に建つ萩・明倫学舎は、萩観光の起点として年間約18万人が訪れる人気スポット。明倫館は1719年に5代藩主毛利吉元が毛利家家臣の子弟教育のために堀内に開いた藩校で、1849年に現在の江向(えむかい)に拡大移転しました。約5万㎡もの敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、あの吉田松陰も教鞭をとったのだとか。また、遺構として見学できる槍・剣道場の「有備館」には坂本龍馬が来て試合をしたと伝わるなど、特別に歴史が好きというわけでなくても思いを馳せるだけでワクワクする場所です。

「藩校跡で幕末パンと郷土料理を食す」プログラムでは、専属ガイドが幕末の科学技術や藩校の遺構などを特別にご案内。その後は復元教室で、戦場の携帯食「幕末パン」と、レストラン萩暦が提供する地元・萩の郷土料理「いとこ煮」をお楽しみいただきます。

〜オランダのパンレシピを萩にもたらした萩の科学者・中嶋治平〜

長州藩の朝鮮通詞(つうじ=通訳)の家に生まれた治平は、アメリカ、ヨーロッパ諸国の外国船が開国を求めて度々来航する中で、これからは朝鮮語だけではなく、オランダ語や英語を習得する必要があると感じていました。 1856年、治平は藩の許可を得て、自費で長崎へ語学を学びに行きました。なんとその2年後、日本でコレラが大流行。かかればたちまち命を落とす病気として、長崎では「トンコロリン」、他の地域でも「3日コロリ」「鉄砲」などと呼ばれて恐れられていました。 治平はすぐさまコレラの予防法を長崎から長州藩に提案。このことが評価され、苗字を名乗ることが許され、さらに藩の公費で学ぶことができるようになりました。このとき治平は語学だけでなく、蒸気機関や製鉄・医術や製薬・羊毛や染色など、さまざまな西洋の科学や技術を精力的に学ぶ中で、オランダ料理についても書き記しました。

その中の「ブロード」というページには、下記のような記述がありました(実際のメモから一部抜粋)。

麦粉 一斤 卵  五ツ 糖  少許 本  五勺

「翌朝ノ五ツ時に焼ナレハ、前夕八ツ時ニ捏ル」 (翌朝8時頃に焼き上げるのならば、午後2時頃には生地を捏ねておく)

ブロードとはパンのことで、材料や作り方、 「コノ位ノ者ガ、コノ位ニナル」 と、二重の円を描いて、大きさの比較も図解していました。

藩校明倫館の正門前で説明を聞く人達。あなたも往時の志にふれてみませんか
藩校明倫館の正門前で説明を聞く人達。あなたも往時の志にふれてみませんか
約160年前の作り方をできる限り再現して作った「幕末パン」のお味やいかに!?
約160年前の作り方をできる限り再現して作った「幕末パン」のお味やいかに!?

師の志を継いで完成したパン、四境戦争で長州軍を勝利に導く

萩へ戻った治平はすぐに、パンが兵糧や非常食として優れていることや製造の必要性を藩に進言しました。奇しくもこの年、西洋の先進技術を取り入れ国力を強化すべきと説いていた吉田松陰が処刑(安政の大獄)。高まる外国からの圧力と国内からの批判で江戸幕府の統制は揺らいでいました。 とうとう幕府軍は倒幕勢力の拠点となっていた長州藩を処分しようと、1866年6月に芸州口、周防大島口、石州口、小倉口の4方面から侵攻。この四境戦争(第二次長州征討)で、中嶋治平が伝えたレシピが、ついに使われることになったのです!

このときパンの実用化に向けて動いたのは、治平より四歳下の大賀大眉(おおが たいび)です。 萩西分大屋(萩市椿)の酒造家に生まれ、松下村塾の塾生でもあった大眉は、吉田松陰から情報収集を託され岩国へ赴いたり、古窯(小畑焼泉流山窯)を復興・経営したり、奇兵隊の資金的な後方支援をしたりと、ビジネスセンスや対人スキルに優れた人物でした。

治平からレシピを伝授してもらった大眉は、手軽で携帯に便利、暑い夏でも腐りにくいパンは兵糧として優れているので作りたいと藩に願い出ます。そして許可と補助金を取り付け、「備急餅」と名付けて製造を開始。治平のレシピに基づいた長州藩の備急餅には、砂糖と当時高価だった鶏卵が使われていました。甘くて栄養のある備急餅は、兵士たちの気力と体力に大きく寄与したことでしょう。

しかし、イースト菌やパンの焼き窯などなかったこの時代、なぜ製造することに成功したのでしょうか。それは、大眉にはパン作りのためのいくつもの条件が整っていたからなのでした。(ヒント:酒造家の生まれ、窯の経営など。詳しくはイベントで♪)

果たして兵士たちは実際にこのパンを食べて幕府軍を圧倒。第二次長州征討は失敗に終わり、これによって江戸幕府の求心力は急速に低下し、265年に及ぶ幕藩体制は終焉へと向かいます。大政奉還のわずか1年前のことでした。

一方で四境戦争のあった年、中嶋治平は長州藩の舎密局(せいみきょく:理化学の研究所)総裁に就任。さらなる研究に打ち込もうとした矢先にガラス製造所が火災で焼失してしまい、過労もたたってその年の12月に44歳で亡くなりました。

これまで日本では、歴史上の大きな危機が何度か訪れていますが、不思議とその度に有能な人物が現れ、今日まで続いています。もしかすると中嶋治平や大賀大眉も、歴史に選ばれた一人だったのかもしれません。

今回のイベントを通して、皆さんも幕末にタイムスリップして、当時の人たちの思いと味覚を存分に味わっていただけましたらうれしいです。 関心のある方は「興味ある」「応募したい」ボタンを押してお知らせください。

また『萩まちじゅう博覧会』では、その他プログラムもたくさんご用意しておりますので、お気軽にお説い合わせください♪

幕末維新期の歴史・科学技術史に関する資料を実物で展示する幕末ミュージアムを見学
幕末維新期の歴史・科学技術史に関する資料を実物で展示する幕末ミュージアムを見学
当日は山口県の冠婚葬祭では欠かせない郷土料理「いとこ煮」もお召上がりいただけます
当日は山口県の冠婚葬祭では欠かせない郷土料理「いとこ煮」もお召上がりいただけます

募集要項

※募集者 / 主催者に連絡を取りたい場合、まずは「応募したい」ボタンを押してメッセージを送ってください。

イベント名

『萩まちじゅう博覧会』 プログラムNo.32「藩校跡で幕末パンと郷土料理を食す」

開催日程
1

2025/10/25 04:00 〜 2025/10/25 06:00

2

2025/11/22 04:00 〜 2025/11/22 06:00

所要時間

スケジュール 1.集合・受付 2.幕末・藩校明倫館特別ガイド 3.紙芝居で幕末パン、いとこ煮の解説 4.幕末パン、いとこ煮、飲み物で休憩 5.解散

費用

1,000円(飲食、入館料込み)

集合場所

萩・明倫学舎 多目的復元教室 〒758-0041 萩市江向602番地

募集者 / 主催者
募集:はぎポルト ローカルエディター/主催:NPO萩明倫学舎
その他

定員:最小2名~最大20名(先着順) 予約申込期限:開催日の2日前 キャンセル:前日から(ご予約料金の50%)

募集:はぎポルト ローカルエディター/主催:NPO萩明倫学舎

このプロジェクトの経過レポート

このプロジェクトの地域

山口県

萩市

人口 4.11万人

萩市

三枝英恵が紹介する萩市ってこんなところ!

2025年は「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録から10周年!!

日本は幕末に西洋技術の導入し、極めて短期間のうちに飛躍的な発展を遂げ、明治時代後期には、非西欧地域で最初の産業国家としての地位を確立しました。これは世界史的にみて極めて稀で、価値のある出来事です。

「明治日本の産業革命遺産」は、日本が製鉄・製鋼、造船、石炭産業などの重工業で近代化を図り、「ものづくり大国」となる基礎をつくった一連の資産群を指し、その歴史的過程を時間軸に沿って示したものです。 山口県・萩や九州など8県11市に立地する23の構成資産のうち、萩エリアには、産業技術導入の最初期のものとして下記5つの構成資産があります。

・萩反射炉 ・恵美須ヶ鼻造船所跡 ・大板山たたら製鉄遺跡 ・萩城下町 ・松下村塾

明治日本の産業革命遺産は、先人たちのチャレンジスピリッツの現れです。 藩という地域社会のまとまりと統制、オーバーテクノロジーを目の当たりにした時の危機感、そして知識欲と柔軟性、国土を守るための国際感覚、そのすべてが先人たちに備わっていたからこそ、今日の日本があります。

そして、私たち一人一人も、脈々と受け継がれてきたこの国の資産です。 先人に誇りを持って、自分に誇りを持って今、私たちは後世にどんなものを遺していきたいでしょうか。 ぜひ萩へ来て先人たちの志にふれて、ふとそんなことを考えるきっかけにしていただけたら嬉しいです。

このプロジェクトの作成者

プロフィール画像

こんにちは!萩市ローカルエディターの三枝です。萩・明倫学舎4号館「はぎポルト」から、地域で輝く人や楽しいイベントなどを紹介しています。わたし自身、東京からの移住者ですので、これからも移住者としての視点も大切にしながら、皆さんのお役に立てる情報をお伝えして行きたいと思っています。

【はぎポルト 開館時間】 毎週火曜日~土曜日 9:00AM~6:00PM 地域のディープな情報や空き家の提供や空き家バンクのご相談、定住相談の窓口として、どなたでも自由にお越し頂ける開放的なスペースです。キッズコーナーもありますので、お気軽にお立ち寄りください。

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