彦根市市民ライター「彦根の魅力ここにあり!」#3
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2025/01/08「興味ある」が押されました!
2025/01/08彦根市には、「もっと彦根が好きになる」を合言葉に活動する、 彦根市シティプロモーション戦略推進委員会があり、官民協働で推進しています。この委員会は、市内外に向けて人の魅力や彦根をよくする取り組みを発信して、彦根をもっと好きになってもらい、彦根に憧れをいだいてもらうことを目的に、様々な取り組みを行っています。
その活動の一つとして、市民の目線で彦根の魅力を発信する「市民ライター講座」を毎年開催しており、その講座を受けた市民ライターさんたちが、「彦根の根っこが、明日を育む」をテーマに、noteにおいていろんな彦根のいい根!(いいね!)を投稿✨しています。
この読み物では、彦根のファンを作る活動をしている、市民ライターさんの記事を転載し、彦根をもっと好きになっていただくお手伝いをいたします。 ぜひ「興味ある」を押して、彦根市シティプロモーション戦略推進委員会の活動を応援してください◎ よろしくお願いいたします。
革新が新しい伝統をつくる「再興湖東焼」
日本最大の湖、琵琶湖を中心に、滋賀県には、東西南北ぞれぞれの気候や風土が育んだ豊かな文化があります。彦根藩は交通の要衝として栄え、近江商人を多く輩出した湖東にありました。ここで江戸時代後期に焼かれていた焼き物が「湖東焼」です。「湖東焼」の歴史はとても短く、明治時代には生産されることはなくなりました。工芸品としての美術的価値の高さと希少性から、「幻の湖東焼」といわれています。
●幻の名窯・湖東焼の歴史
文政12年(1829年)、彦根の商人・絹屋半兵衛が彦根に伊万里(有田)の職人をまねき、芹川畔の晒山に開窯しました。登り窯であったため湿気で上手く焼けず、1年後、佐和山山麓に移築されました。これが「湖東焼」の始まりです。
「湖東焼」は、天保13年(1842年)、彦根藩第12代藩主・井伊直亮公の時代に彦根藩の藩窯になりました。直亮公は自ら雅楽を演奏し、雅楽器を収集するほどの道具好き。鋭い審美眼を持ち、朝廷や大名などに「湖東焼」を献上していたそうです。そして、彦根藩第13代藩主・井伊直弼公が「湖東焼」の発展に情熱を注ぎ、10年あまりで「湖東焼」ブランドが確立しました。
直弼公は、彦根城の中濠(現・外濠)にたたずむ質素な屋敷、埋木舎(うもれぎのや)で、17歳から32歳までの15年間を過ごしました。当時、直弼公は彦根藩の世継ぎではなく、この屋敷で貧しい一生を送らねばならない不遇の境遇にありました。
「埋もれ木」とは、地中に埋まり外から見えない樹木のこと。直弼公は、自らを花の咲くことのない「埋もれ木」にたとえ、書、和歌、茶道、能・狂言などの修練に没頭し、日々を過ごしました。茶道の「一期一会」という言葉は直弼公によるものです。
茶道には焼き物、茶道具が欠かせません。 茶道の一派を創設するほど茶道を愛した直弼公は、自ら楽焼の作品を残すなど、焼き物にとても精通していました。そのため、「直弼公好み」の焼き物を作るため、各地から優れた職人を招聘し、「湖東焼」は19世紀半ばに彦根藩窯として最盛期を迎えることになります。芸術の発展の裏には、必ずそれを支援したパトロンの存在があります。茶道の達人でもあった直弼公が「湖東焼」のパトロンであったからこそ、「幻の湖東焼」と称えられるほどに進化したのでしょう。
「湖東焼」は、景徳鎮や伊万里にも劣らない世界最高レベルの焼成技術と、息をのむほど美しい、繊細で豪華な絵付けが特徴です。白地に透き通るような青色の発色が美しい「染付」は、まさに世界レベルの芸術品!豊かな水をたたえる琵琶湖をイメージさせる「湖東焼」は、だれもがその美しさに心を魅了されることでしょう。
「湖東焼」の絵付の技法はとても多様で、赤絵も焼かれていました。城下町や民家に据えられた「錦窯」という小さな絵付窯で焼かれたものは「民窯赤絵湖東焼」と呼ばれ、贈答用として人気がありました。また、磁器だけでなく、土の自然な温かみが感じられる陶器も作られました。「湖東焼」は高級美術品として人気がありましたが、彦根藩は、地場産業として、「湖東焼」を一般市場に広げることを考えていました。
しかし、万延元年(1860年)、直弼公が桜田門外の変で亡くなった後、「湖東焼」はパトロンを失い、一気に勢いを失ってしまいます。文久2年(1862年)に藩窯は廃止され、民間に払い下げられました。そして、明治28年(1895年)に廃窯し、その歴史に幕を閉じることになるのです。
湖東焼の再興
琵琶湖の湖東、彦根の地に生まれた「湖東焼」は、直弼公と共に栄華を極め、彦根藩と共にその歴史を閉じました。しかし、ついに100年の長い空白のときを経て、昭和61年(1986年)、彦根の有志によって「湖東焼復興推進協議会(現・NPO法人湖東焼を育てる会)」が発足したのです。
「湖東焼」の再興の一端を担うことになったのは、甲賀市信楽の窯元に生まれた陶芸家の中川一志郎(いちしろう)さん。
中川さんは20代の頃、お母様の実家があった彦根で、「湖東焼」と運命的な出会いを果たしていました。そして、まるで、直弼公が信楽から中川さんを招聘したかのように、中川さんは彦根に移り住むことになったのです。
「湖東焼」の再興に使命を感じた中川さんは、地道な研究を重ね、平成10年(1998年)、彦根城の京橋口を起点に南西に続く夢京橋キャッスルロードに「再興湖東焼・一志郎窯」のギャラリーをオープンしました。当時、映画の撮影で彦根に滞在していたハリウッドスターのニコラス・ケイジがふらっとギャラリーを訪ね、「一志郎窯」の抹茶茶碗を購入したそうです。
また、彦根城・時報鐘の隣にあるお茶屋や、玄宮園内の茶室・鳳翔台では、「一志郎窯」の抹茶茶碗でお抹茶をいただくことができます。中川さんの工房「一志郎窯」は、彦根城からキャッスルロードを抜けた、日本で唯一、江戸時代の足軽組屋敷が残るエリアにあります。絹屋半兵衛が最初に築いた芹川畔の晒山窯の近くです。 そして、中川さんは、工房の隣にある築250年の彦根市指定文化財「善利組(せりぐみ)・林家住宅」を購入・改装し、令和2年(2020年)、満を持して「ギャラリー&茶房みごと庵」をオープンしました。
足軽組屋敷は、彦根城と城下町を守るために、旧・外濠(現・昭和新道)の外側に足軽組を集中して設けられた屋敷群です。一歩、裏通りに足を踏み入れると、そこには小さな自動車がやっと通れるくらいの昔ながらの静かな路地裏の世界が広がっています。観光地に隣接していながら、喧騒から離れた、中川さんが大切に守る大人の隠れ家がそこにありました。履き物を脱いで座敷に上がると、「一志郎窯」の作品が100点ほど展示され、購入することもできます。彦根城や近江八景などをモチーフにした青色の繊細な絵付けはとても美しく、その風景に心が溶け込んで、ときを忘れそうです。また、中川さんが収集した江戸時代後期の「湖東焼」も40点ほど展示されています。
再興湖東焼への想い
「一志郎窯」では、繊細で豪華な絵付けをした花器、絵皿などの高級美術品だけでなく、彦根藩が進めたように、土の自然な温かみを感じる食卓で使う陶器も作っています。
彦根市の重要伝統的建築物群保存地区内に位置する日本料理のお店「武相草」では、こちらの土鍋が使われています。「武相草」の美味しい銀シャリは、「一志郎窯」の土鍋で炊いたもの。全国の有名な料亭やプロの料理人に評価されている土鍋で炊いたご飯はつやつやとして、とてもおいしく炊きあがります。
中川さんが研究に研究を重ね、こだわり抜いて完成した土鍋は、そのまま食卓に運び、器の美しさも一緒に味わうことができます。 プロの料理人が、「一志郎窯」の土鍋を求めて、全国から中川さんを訪ねて来られ、ギャラリーはいつも活気があふれています。先日も有田からたくさんの方が中川さんを訪ねて、彦根に来られたそうです。そんなお話を伺うと、直弼公の時代から続く有田と彦根の不思議なご縁を感じざるをえません。 日本一の土鍋と高く評価されている「一志郎窯」の土鍋。
「たくさんの人が私を訪ねてきてくださるのは、今も彦根に残る、直弼公の影響力のおかげなんです。」中川さんは、にこやかに文武両道の直弼公のすごさをお話してくださいました。
直弼公が、全国から一流の職人を集め、藩窯として最高品質の「湖東焼」を完成させたように、まるで、信楽から中川さんを彦根に招聘したように思えます。 そして、直弼公と城下町を守っていた足軽組屋敷が残るエリアにある「善利組・林家住宅」で、ときを超えて、中川さんは直弼公の精神を守っている。そして、「湖東焼」の再興に情熱を注ぎ続けているのではないでしょうか。 江戸幕府で大老を務めた直弼公が日本の開国・近代化を断行したように、中川さんは「一志郎窯」で、時代のニーズにあてた革新を続けているのです。
中川さんがギャラリーを観光地から離れた工房の隣に移したのは、陶芸に没頭するためでした。 「生業としての陶芸はそろそろ終わりにして、『湖東焼』をとことん極めたい。伝統は革新の連続であり、100年後には『再興湖東焼』が新しい伝統になっている。今、私は100年後の伝統をつくっているのです」
●「湖東焼」の伝統を次世代へ
「咲きかけし たけき心の花ふさは 散りてぞいとど 香の匂ひぬる」
私の熱い想いは今世では成し遂げられなかった。しかし、必ず後の世に実を結ぶだろう。
これは、直弼公が桜田門外の変で命を落とす日の前日に、詠んだ和歌と伝えられています。伝統とは形を継承することではなく、精神を継承することではないでしょうか。直弼公の精神を受け継ぐ「一志郎窯」が、新しい伝統として実を結ぶ日も近いことでしょう。
(写真・文 若林三都子)
公開日 2021年12月21日 転載元 note「彦根市シティプロモーション戦略推進委員会」 転載元URL⇒https://note.com/goodroots_hikone/n/neda49c7a2b50
このプロジェクトの地域
彦根市
人口 11.36万人
彦根市企画課が紹介する彦根市ってこんなところ!
南北に長いひこね。城下町エリアは程よく町だったり、新興住宅が並ぶ地域もありますが、南部は田んぼが広がるのどかな風景になります。江戸時代からの町屋や昭和レトロな建物が混じりつつ、自分に合った暮らし方が見つかるかと思います。最近ではファミリー層の移住者も多く、テレワークしながら働いている方も見られるようになりました。
人付き合いもお互い丁度よい距離感で接するため、地域ごとに異なりますが田舎ならではの付き合いがしたい人には少し物足りないかもしれません。ですが ”いいおせっかい”を焼いてくれる人や、地域活動に励む人など、町に出ると、いろいろな人に出会えます。のんびり暮らせる「程よい田舎暮らし」をしたい人におススメです。